▲縄文時代前期(約600年前)の静岡・清水平野と古麻機湾(土・高橋1972) 出典:記念誌『大谷川放水路』 |
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現在の巴川周辺は縄文時代(約6000年前)には現在より海水面が4~6m高く、清水から麻機に至る奥深い入江になっていましたが、弥生時代以降には、ほぼ現在の海水面になり、低地が形成されました。 このため、この地域では安倍川の本流(ほんりゅう)が乱流(らんりゅう)し、流れは低地を縫(ぬ)うようにして清水方面に流れていました。江戸時代になると徳川家康によって駿府城が築造され、薩摩土手が造られたために安倍川からの水量が減少し、また下流では長尾川や吉田川から流出した土砂が堆積(たいせき)し、流れが衰え浅畑沼ができたと言われています。 |
▲昭和33年頃の天神前から諏訪神社方面を望む 写真提供:前島幸彦氏 |
戦国時代が終わり世の中が安定してくると人口も増え、この地域でも田んぼが開かれてきましたが、低地を流れる巴川は水はけが悪く、水田は10年1作と言われるほどで、大雨が降れば何日も水が引かず稲は腐ってしまいました。 このような状態を何とかしようと江戸時代から大規模な巴川の浚渫(しゅんせつ)や流れを変える工事が行われ、その後、戦後の食糧増産を目指した土地改良事業によって良好な水田となりました。 昭和40年から50年頃には高度経済成長とともに巴川流域の市街化が進み、台風などの大雨によって浸水被害が発生するようになりました。 特に昭和49年7月7日から8日にかけて発生した「七夕(たなばた)豪雨」は巴川流域の総合治水対策事業への取り組みの契機となりました。 |
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