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更新日:平成24年12月19日
写真は昭和29年に湊橋から河口方面を写したもので、河口から800mの付近です。江戸時代には、写真の位置から上流の相良城の外堀の辺りまで千石船が入ることができましたが、安政の大地震による隆起と牧之原開墾による土砂流入で河床が上がり、大型船の運航は困難となりました。
写真中、石垣に2箇所桟橋が架かっていますが、当時はここから有料でボートに乗ることができました。また、この頃は投網を打つ人、青海苔・ゴカイを採る人もいて、漁船が両岸に係留されていました。夏にはこの河原で花火大会が行われていました。
~昭和29年頃の萩間川湊橋からの様子~
こちらは萩間川河口部を撮影したものです。この浜はワカメなどの海藻の産地で、徒歩採りと小船による沖採りの2種類の採り方があり、それぞれ行う際には資格が必要でした。
海藻からつくられたシャンプーが相良の特産品となったこともありました。
なお、右に見える煙突はヨード屋のものです。
~昭和29年頃の萩間川河口部の様子~
平成24年の現在、湊橋から河口方面を見ると、貸しボート屋は無くなり、昔に比べて訪れる人は少なくなりました。
かつて湊橋付近は「田沼街道」の起点として、また海上交通の中継点として栄え、陸海両面にわたる交通の要衝でしたが、現在は陸上交通を手段として発展を図っています。
萩間川は感潮河川であり、この写真は満潮時に近い時刻のものと思われます。
~ 平成24年現在の萩間川湊橋からの様子 ~
現在の萩間川河口部です。昔は写真右奥の砂浜から直接、船小屋が船を引き上げていましたが、その後、萩間川右岸河口に相良漁港ができたため、船は全て港に係留されるようになりました。
河口保護のための堤防が設けられ、消波のためのテトラポットも設置されています。また、写真中央奥の防波堤は階段状になっており、布刈※などの際には海岸に出やすくなりました。
※布刈(めかり):ワカメなどを刈り取ること。
~ 平成24年現在の萩間川河口部の様子 ~
昭和38年頃の写真です。ここは、現在の牧之原市役所相良庁舎付近の商店街通りにあたります。この辺りは相良町一番の繁華街で、祭典には相良・福岡・波津の各町内会で屋台を引き出し、写真のような踊りも披露されました。この年は、東京五輪音頭が踊られています。
~ 昭和38年頃の県道相良大須賀線の様子 ~
現在の商店街通りです。現在では、大沢に建設された郊外型の大型商店街に賑わいが移りつつありますが、こちらの老舗商店街でも専門品や特定商品の販売等、生き残りを賭けた経営努力を続け、強い団結力を見せています。
~ 平成24年現在の県道相良大須賀線の様子 ~
昭和34年頃の写真です。駿遠線は「軽便」とも呼ばれ、人々に親しまれていました。遠州神戸(かんど)駅は大井川西岸の重要な駅で、対岸が大井川駅でした。単線のため、駅ですれ違いができるようになっていました。通勤通学、レジャーなどの大切な足となり、神戸や大幡の住民にはもちろん、初倉(島田市)地区などの近隣住民にも利用されていました。
~ 昭和34年頃の駿遠線遠州神戸駅の様子 ~
現在の同地点の写真です。駿遠線は昭和43年に廃止され、翌年には東名高速道路吉田インターが営業開始し、車時代が到来しました。
駿遠線の廃止後もしばらく駅舎は残り、昭和の末頃までは老人憩いの場として利用されていましたが、現在、駅舎は取り壊されて広場となり、線路跡は歩道・自転車道となりました。自転車道は静岡~御前崎間を結んでおり、人気のサイクリングコースとなっています。
~ 平成24年現在の駿遠線遠州神戸駅の様子 ~