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更新日:平成23年12月8日
大井川は昔から暴れ川として有名で、大雨が降ると川は氾濫し、そこに住む人々を悩ませてきました。江戸時代の大井川は下の図のようにいくつにも分かれたり、曲がりくねったりしていました。
近世(江戸時代)になると、志太平野のあちこちにあった、わずかに高い土地に家を建て、少しづつ村を大きくし、この地方に大勢人が住むようになりました。繰り返し起きる洪水に対して、人々は自分達の命・家・田畑を守るため工夫をこらしました。そうした知恵や工夫から生まれた全国的にも珍しい舟型屋敷と舟型集落を紹介します。
~ 江戸時代の大井川 ~
~ 舟型屋敷のしくみ ~
少し高い土地に川原の石・土を運び、洪水の時に水が流れてくる方向に向かって舟の形の土手を作ります。(土手は「ボタ」と呼ばれます。)舟の形をした土手なので、洪水の時の水の勢いを弱めることができ、家がこわされたり、流されたりするのを防ぎました。
ボタには、しっかりした石垣をつくるものもあり、松などの大木や竹が植えられました。ボタに植えられた樹木は、この地域特有の空っ風から家を守る役割も担っています。
また、ボタに沿って溝を掘り、洪水時に溝に沿って水が流れ、屋敷内への進入を防ぐ工夫もされました。
舟型の先端部には墓地がつくられました。先端は聖域とされ、そこに墓地をつくり祖霊に屋敷を守ってもらおうとする信仰があったと思われます。
明治時代以降、大井川に強固な堤防やダムが建設されて、洪水はほとんどなくなりました。そのため、このような屋敷は作られなくなり、その後の耕地整理や道路網の発達、住宅の新築や改築などによって屋敷の数は少なくなっていきました。
~ 舟型屋敷 ~ |
~ 舟型屋敷模型 ~ |
~ 輪中の地図 ~
右の地図に馬のひづめのような形をしたところがあります。これは村を取り囲む土手で「輪中(わじゅう)」と言います。村の周囲に舟型の土手(堤)をめぐらし、村への水の浸入を防ぎました。土手といっても、今の大井川の堤防とは比べ物にならないほど低く、1~2mくらいだったようです。土手の外側に溝をめぐらし、舟型の先端部分は神聖な場所として、かつては大井八幡神社が祭られていました。
「舟形屋敷」が個々の屋敷を守るために工夫されたものであるのに対し、「輪中」は舟型の土手で集落を守ったものです。洪水に対する基本的な構えは両者とも共通しています。
右下の写真は焼津市(旧大井川町)の藤森に実際にあった輪中の様子です。現在は土地改良により無くなっています。
~ 輪中のしくみ ~ |
~ 藤森輪中(旧大井川町) ~ |